- LINER: 10年前に棚橋様が感じていらしたことや当時の状況はどうだったのでしょうか。
棚橋:10年以上前になりますが、技術者としての私の最初のスタートは1983年に大手電機メーカーに就職したことから始まります。最初は半導体の設計に携わりましたが、当時は一般ユーザー向けのパソコンなどない時代ですから、工業製品や工場のロボット向けの半導体の設計を全て手作業で行っていました。手作業なので自分でハンダづけしながら作っていくという職人的作業でコンピューターの仕組みを身体で学ぶことができたという、今では大変貴重な経験をつむ事ができましたね。
しかしとにかく給料は安く、勤務地は僻地、会社の寮は十一人部屋で雑魚寝、一日中半導体をいじり続け、トラブルがあれば徹夜で修理、「何でこんなに忙しくて、何でこんなに貧乏なんだろう・・・」とよく思いました。当時はまだ終身雇用が当たり前の時代でしたし一度大手に就職したら最後までそこに骨を埋める覚悟というのが支配的な考え方ですから、そう簡単に辞めるわけにはいきません。とりわけ技術者は一度大手を辞めたら、同じような大手の会社に転職というのはあり得ないと言われていた時代ですから、しばらくは悶々とした日々が続きました。しかしさすがに耐え切れなくなり、恩師の紹介で転職することになりました。大手メーカーから大手メーカーへの転職だったので当時は相当珍しかったのでしょう、雑誌に取り上げられたりして話題になりましたね。
転職に成功した私は、半導体だけでなくコンピューターのシステム全体に関わる仕事に就きました。ここでは、独自のコンピューター開発ということで、開発自体は成功しませんでしたが、コンピューターの仕組みをほぼ隈なく理解する事ができたと思いますね。
そして次に通信の世界に入ってゆく事になります。海外旅行の経験もない私にドイツへの派遣が言い渡されました。この時はドイツ駐在といっても、今までと変わらない開発生活だったので大きな変化はなく、相変わらずの貧乏生活でしたね。
大きな変化はその後1988年からのフランス赴任になります。急遽フランス語の講座を無理矢理受けたりしましたが、まるで頭に入らない。でもそんなことを言っている余裕などありませんから、言葉も何もわからないまま現地へ飛び、勘だけでアパートを借りてなんとかフランスでの生活をスタートさせましたが、最初の半年くらいはどうしようもなかったですね。そうこうしているうちに仕事にも序々に慣れていき、何年間かプロジェクトの立ち上げに携わりながら、コンピューター・通信の世界をトータルに学ぶ事ができました。
日本ではすでにバブルが崩壊していた1991年にフランスから戻ってきました。帰国した私は、液晶ディスプレイの開発を担当し、ここではじめてメディアプロセッサーの開発に向けてスタートしたのです。しかしすでに世の中には「ウインドウズ95」が華々しく登場し、日本のパソコンメーカーはマイクロソフトとインテルの勢いに圧倒されていました。遅々として進まない開発に私は起死回生を図ってアメリカ・シリコンバレーへ渡りました。1996年のことです。凄まじい厳しさのアメリカのハイテク産業組織、そこで働くエンジニアの専門性の高さなど、ここでの体験は驚きの連続でした。そしてこのシリコンバレーの地で、私の人生に大きな影響を与えた、キム・ヨンミン教授(ワシントン大学教授、DNA社技術顧問)と出会う事ができました。当時キム教授の頭の中には、すでにメディアプロセッサーの具体的なイメージが出来上がっていて、この話を聞いたとき、「これを完成させられるのは自分しかいない」と強く決心したのを覚えています。このキム教授との出会いがなければ、メディアプロセッサーの完成もなかったと思っています。
幸いメディアプロセッサーに対しては、会社側も将来の可能性を感じてくれたので開発は続けられました。しかし、開発というのは時間がかかるのです。コア部分が完成しても、試作品を作り、それを動かすためのソフトやプログラムを作り実験を繰り返す・・・私の頭の中ではイメージはとうにできあがっていたのですが、開発自体はなかなか進まなかったのです。そしてとうとうプロジェクトの終焉となってしまいました。その頃が2001年、プロジェクトの終焉と同じく私も会社を去ることにしたのです。当時は独立してベンチャーを興してなどは夢にも思っていませんでしたね。ただ、完成まであと一歩だったメディアプロセッサーをどうしても完成させたかった・・・しかし開発を継続するには設備や資金が必要です。幸い私の周りにはよき理解者が沢山いて、そんな友人たちの協力を得、現在のDNAのスタートとなる会社設立に踏み切ったのです。
- LIMER:其のときの苦労やエピソードなどはありますか。
棚橋:退職する前、ようやく腰を落ち着けてメディアプロセッサーの開発に打ち込める環境は整いましたが、開発研究費を得る事はかえって難しくなっていました。この開発が結果的にどういう製品として世に出て、どれだけの利益が見込めるのかを会社側に示さなければ費用は出してもらえません。画像処理の半導体というものに関して、開発業者としては、「考え方はこうでソフトはこんな感じで作れば大丈夫」と言います。
では、実際に半導体はあるのかというと、「いや、まだアイディアだけでこれから作るところだ」と言う。「じゃあソフトは?」と言うと、「こうすれば大丈夫だけど、ソフトはまだ無い」と言う。ビデオ信号というのは走査線があって、画面の半分を切り替えて表示しています。それをブラウン管や液晶、プラズマといったものに瞬時に変換して表示していくのですから、なかなか上手くいかない。
画像処理用のチップの作成といっても最初は検証用の回路だけですから、巨大なものになります。そこから、集積回路として落とし込んで、やっと一つのチップにできるのです。当然、最初の設計が間違っていると修正も大変で、修正にも莫大な労力と資金が必要になるわけです。
そして目標も高すぎたのでしょう。徐々に開発費は枯渇しはじめ、プロジェクト終了となってしまいました。実用化まであと一歩でしたが、誰も待てなかったし、お金もなかった。それでも、コンセプトが正しいという自信はありましたし、世に出すべきものだという信念はあったので、そのときは本当に悔しかったですね。
- LIMER:それで独立という事になった訳ですが、苦労したことはありますか。
棚橋:日本に戻って半年くらいは、会社設立のためにいろいろ準備をしたりなどで忙しくしていました。そして2001年10月に会社を設立しました。会社と言っても普通のワンルームマンションで、一人でハンダ付けしたり、実験を繰り返し、ひたすら開発に打ち込んでいたころですね。
一介のサラリーマンから経営者になってしまったので、開発だけに集中しているわけにも行かない部分がありいろいろ大変でした。ただ、不思議なもので、いろいろな人がよく出入りをして手伝ってくれたり、まわりにいろいろ手助けをしてくれる人たちが一杯いて、手が回らない事をやってくれたりしてもらえたのがありがたかったですし、嬉しかったですね。
ともかくも最初は苦労の連続でした。とにかく、資金が必要になるわけです。DNAは開発型ベンチャーですから、コアとなるチップの開発だけではなく、周辺のソフトウェアも開発しなくてはなりませんし、配信のための仕掛けの構築といった、具体的な商品やサービスの形に結実しなくてはならないですからね。STB(セットトップボックス)もバルクで作らないとコストメリットがでないですからロットで1万台とかいう単位で作ってもらわないとなかなか適正な価格になってこないわけです。でも、一万台となるとその費用もやはり大きくなってしまいますからね。最初の一年間は何とか自分がつぎ込んだ資金で持ちましたが、それも長くは続きませんからしばらくは開発も大変でしたが、金策にも苦労しましたね。
- LIMER:現在の状況はどうでしょうか。
棚橋:「世の中ハードだけでありがたがる」というか、「ハードだけで売れる」ということはあまりないでしょうね。こちらもハードだけで儲けよう、などと思っていませんが。“ハードの革新なくして新しいものはない”、という思いも強いので、その辺りの折り合いに苦労しています。
今思うのは、「メディア用のコンピューターを作ろう」というコンセプトに、間違いは無かった、ということがはっきりしてよかったと思っています。
我々は技術を資本にした“IT屋”であり、お金だけ、アイディアだけの虚業とは違いますから、その部分を世の中が評価してくれてきているのが今、現在なんだと思っています。結局、“IT屋”として起業した以上は技術力で勝負していくのが本筋ですからね。
今回のSTBは家庭に入った、いわば「自動販売機」なんです。ワンクリックでいろいろなものが買えてしまうようにするには、セキュリティ面から考えてもこのような形式が一番ですからね。
ただ先ほども言ったように、ハードを大量に捌いて儲けるということは考えていません。それこそハードはタダで配って、ソフトやシステムで儲けるということも有りですし、そういったコンセプトも、今の時代は受け入れてくれるようになってきていますしね。
しかしやはり技術屋としては、ハードをタダで配るということには抵抗があるんですよね。なぜかというと、この箱(ハード)の中に入っている知的所有権の価値はわかって欲しいし、このチップのすごさには敬意を払ってほしいという願望があるのです。
まぁ、そういう特化したものを提供することは、ある意味自信や信念がないとなかなか出来ないのですけどね。今は私どもで展開するサービス「でじゃ」(オンデマンドテレビ「でじゃ」http://www.deja.tv/)を、極めて奥の深いサービスであるということを、できるだけ多くの人に知ってもらいたいと思いますね。
- LIMER:ネット配信という部分でいろいろ他のサービスも出てきていますが、
棚橋:我々の仕組みではダウンロードということを基本にこだわってやってきました。パソコンへの映像配信とは発想が根本的に異なり、配信経路はインターネットですが、映像を見るのはあくまでも従来のテレビモニターで、ストリーミングではなくデータをダウンロードして見る、という方法です。他のサービスでは広告を載せて、テレビ局がやっていることをパソコンでやっているように見えますから、そんなことで本当にいいのか、といった思いはあります。
リアルタイムな扱いはしないという考えの元、ダウンロードという方法を最大限に生かしたサービスを提供したいと思っています。
パソコンでテレビを見るといっても、やはり操作はいろいろあるわけで、ネットに繋がっているということを除いても、まだ2クリックで見れるという域まで達していません。一般ユーザーにとって大事なことは、テレビを使ってきれいな画面でもっと簡単に見れる、ということだと思いますね。その点、私どもの「でじゃ」の専用STBというのは簡単ですから、一般ユーザーにとってかなり有利なものと思っています。
- LIMER:本の中で放送と通信の融合はありえないとしていますが、やはり、難しいでしょうか。
棚橋:放送と通信というのは、本にも書いたように、“放送は線路であり、通信は道路”ですから、基本的に相容れないものなのです。また、放送というとどうしても権利や著作権、といった権利の話というのは避けては通れません。放送というのは権益に守られた世界であり、通信というのは個人の自由に基づいた世界ですから、双方は結局相容れない性格があるので、融合はありえないと思いますし、する必要もないと思います。通信と放送の融合というのは、絵に描いた餅に過ぎないのです。去年の放送と通信の融合に関する一連の騒動も、結局ふたを開けてみたら単なる金儲けでしかなかったわけですから・・・。もちろん、あの騒動のおかげで世の中少しは変わったかもしれませんが。
また、今あるネットの配信もコマーシャルを入れる事で資金の回収を行っていますが、これは放送のスキームとなんら変わっていません。権利を守ろうとして、実際のお客さまであるユーザーに不便さや判り難さを強要するのはどうかと思いますね。
ユーザーは、もっとシンプルに見たいものを見たいわけで、それに価値を認めれば、一万円だろうが払うはずなんです。それを万人に提供して、広く、一律で価値を設定するのは、製作側に対しても失礼ですし、ユーザーにとっても価値というものが曖昧になってしまい、双方で損をするような感じになってしまいます。
結局は既得権益を持った側だけが儲かる仕掛けになっているなんておかしいですよね。
放送と通信は、仕組みも、社会的役割も、得意分野もニーズもまったく異なるものですから一体化の意味はなく、融合ではなく、共存するものだと思います。
- LINER: これからの10年、棚橋様がやってみたいことや夢などありますでしょうか。
棚橋:これから先、映像のライブラリを充実させていきたいですね。どうしても放送だと公共性や法的な部分で編集などを行い恣意的な部分が出てきますから、本当のフィルムやノーカットのコンテンツの提供は難しいと思うのです。
そういったことも、我々が提供する方式であれば、クリアできますから、ぜひ散逸や消失する前にライブラリ化しておきたいですね。映像というものにはインパクトがありますから、戦争に関する映像なども、「実際に当時はそんなことを言っていたのか」など、雰囲気も含めて、歴史的に貴重な状況を雄弁に語ると思うわけです。
もちろん、当時は当時で編集はあったはずですが、それを更に都合のいいところだけを編集して見せるよりは、より健全なことだと思います。また、一旦デジタルにして取り込めれば永久に残す事も可能ですから、後世に貴重な映像を残す為にも、ライブラリ化の充実はやっていきたいですね。
- LINER: 本日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。
インタビュー
2006/6/7 10:00〜11:00 渋谷道玄坂オフィスにて
★最後にSTBを使って実際のテレビにて視聴するデモを見せていただきました。
確かに普通にテレビを見る感覚で見られるのは楽ですね。
棚橋社長の著書「IT屋 技術力がもたらす、ほんとうのメディア革命」は今回のインタビューで触れなかった部分もあってお勧めです。 |